日韓の橋になることを夢見て

―日韓社会使徒職の協働から射し込む光―

中井 淳SJ
イエズス会司祭(韓国在住)

出発点はどこかと聞かれたら、5年前の下関、ある冬の夜と答えるだろう。時間の合間を縫って一生懸命韓国語を勉強した。韓国に行かねばならない。それは確固とした使命感だった。日本人ならば、韓国に行き、負の歴史を癒し、日韓の新しい歴史をつくっていかねばならない。元従軍「慰安婦」のハルモニたちの受けた傷の痛みが私の心の中に入ってきますように、そのように祈った時間だった。その思いは叶い、2015年に7か月の語学研修、そして2016年に再び、韓国管区の社会使徒職に加わらせてもらい、今3か月が経つ。日韓の和解を探りながら、今私が感じる呼びかけは、「日韓の協働」である。和解とは果てしない旅路だ。その旅路は、ときに互いに向き合いながらも、共に前を向いて歩んで行く道ではないか。日韓が志を一つにし、傷ついた人、傷ついた世界を癒す旅に出て行くことこそが新しい歴史なのではないか。

拙い韓国語を通し、大海の一滴に過ぎない毎日の歩みの中で見えてきた日韓の協働から射し込む光を、読者のみなさんにわかちあえたらと思う。

巨大な海軍基地を前にして

「カンジョンなんて、なんで行くんです?あそこに行くのは、教会の神父か尼さんだけですよ。海軍基地の前で祈るんだそうだけど、あれだけ基地の建設が進んでいて何の意味があるんですかね。」2015年9月に済州(チェジュ)島の江汀(カンジョン)村を訪れるために乗ったタクシーの運転手の言葉だ。

これがおそらくカンジョンの平和運動が置かれている現実の一片を物語っている。チェジュ島でも、とくに直接的に被害を被らない市内の人々はさほど関心を持たないし、武力に依存しない平和ということを真剣には考えない。チェジュ島に海軍基地が建設されることの無意味さ、弊害について無知である。島民でさえもそうであるのだから、まして陸地の人間はさらに無関心、無意識なのだろう。チェジュ島の歴史は、沖縄の歴史に重なる部分が多い。本土のために犠牲にされた人々。

2016年9月にまたカンジョン村を訪れた。すでに巨大な海軍基地の建設が終了し、あの美しかった海辺の風景の一片は、見る影もなくなってしまった。それでも、海軍基地撤去を求める活動家たちが、毎日海軍基地の前でデモを続けている。基地建設が進む中で、チェジュ教区は聖フランシスコ平和センターを建て、あくまでも基地反対の姿勢を貫くことを証しした。

「もう基地は建ってしまった。基地反対運動なんてして何の意味があるのか。」チェジュ島を訪れた人の脳裏に必ず一度はよぎる問いだろう。曖昧模糊としたぬかるみの中で、明確な答えを見いだせない自分がいた。この巨大な悪を前に、私たちが見いだす希望は何なのか。その答えこそが、日韓協働の意味を教えてくれるに違いない。

共に夢を描くこと—「核のない平和な世界」を胸に歩く巡礼—

9月の後半、釜山から始まる脱原発巡礼に参加した。5年前、韓国のイエズス会員2名が社会使徒職の日韓協働を模索し、下関を訪れてくれた。夢をわかちあった“あのとき”を機に下関で始まった日韓の小さな脱原発の交流が、回を重ね、日本カトリック正義と平和協議会と韓国側との共同主催という形まで発展したことは感慨深い。韓国の南端から北方まで、東海岸に沿って密集して建設されている原発群。その建設、維持への反対運動をする人たちを訪ねる旅。

月城(ウォルソン)の脱原発テントを訪ねたときの心の苦みは今も残っている。日本側は、兵庫県篠山市の原発災害対策の実例を報告した。「住民にヨウ素安定剤を配っている自治体があるなんて。」感心しながらも、よりいっそう自身の置かれた状況のどうしようもなさに苦悶するある母親の姿は痛々しかった。子どもの健康を心配しながらも、受け入れてくれる先がないままに、村を出て行くこともできない。しかし、日本からも訪ねてきてくれた仲間がいるということに勇気を得たという。私たちは、国際的ネットワークにつながるようにと励ました。しかし、そんなことしかできなかったというやるせなさが今も残っている。実際に、私たちが韓国の痛みの最前線で苦しむ人と継続して関わっていくネットワークをどのようにつくっていくのか。

三陟(サムチョク)での3時間の徒歩巡礼。2人の愛らしい子どもたちを連れたお父さんと肩を並べ、韓国の歌を共に歌い、心の距離がぐっと縮まる。原発廃棄物の誘致計画をくいとどめ、賛成派から命を狙われ、しばらく隠れて生活しなければならなかったという話に感銘し、胸があつくなった。サムチョク市は政府が強硬に進めようとする原発の建設に市をあげて反対しているという。巡礼の間、市長じきじきに激励と感謝のために来てくれたのには驚き、力をもらった。市の中心部には、私たち巡礼団を歓迎する横断幕までがかかっていた。

ドイツからはるばる参加された奥道さんという女性とバスで隣席したおかげで、日本の過去、現在、未来について話をわかちあった。「あなた、夢を持たなければいけないわよ。」夢が私をここまで連れてきてくれたのは確かだ。しかし、「核のない平和な世界」というこの反原発巡礼が掲げるスローガンの実現可能生に懐疑的だった自分がいた。しかし、奥道さん、そして巡礼の歩みは、私に新しい大きな夢を描くようにと促してくれているのを感じる。「ブラント首相は当時ドイツ統一の可能性なんか誰も信じなかったときに、東西の平和という明確なビジョンを持っていたのよ。そして、現にベルリンの壁は壊れたわ。日本は原発が43基あるけれど、福島の事故で今は3基しか稼働していないわよね。原発に反対する人がいなかったらどうなっていたと思う? 私たちの力は微々たるものだとしても、決して無ではないのよ。」心に光が灯る励ましの言葉だった。私の経験もそう教えてくれる。魂のそこから湧いてくる夢ならば叶うのだ!

巡礼をリードしてくれたヤン・ギソク神父のミサごとの説教も、私たちの一歩一歩を希望のあるものにしてくれた。教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ』の言葉、「私たちが悪、危険、苦しみの源と考える多くのものを、創造主に協力する働きに私たちを引き入れるための、現実における産みの苦しみの一部にする」(80)を引用し、危機のときにこそ、私たちの連帯は強まり、前線で命をかけている人たちに出会うことができるのだ、と鼓舞してくれた。他の誰かの努力を待つのではなく、私たち自らが一歩を踏み出し、出会い、連帯し、そして継続した実践がつながっていくならば、きっと。

間をつなげる橋、平和の包囲網の展開

確か、私は一年前の9月に同じことを聞いていたのだ。しかし、歩みを通し、再びその答えを聞くとき、その真実味を皮膚感覚で体感することができる。チェジュ島のカン・ウィル司教に直接質問する機会を得た。「巨大な軍基地の前でカン司教が見いだす希望は何ですか。」「まだ軌道に乗ったとは言えない状況です。しかし、この間、沢山の人々が国内外からカンジョンを訪ね、活動家、住民たちとの出会いを通して刺激と力を得て、帰っていく姿を見てきました。今でも多くの人が訪問してくれます。小さい子どもから中高生、大人たち。韓国人だけでなく、他国から、米国、フランス、イギリスからも…。」朝鮮戦争、ベトナム戦争に参戦し、戦争の無意味さを知り、平和活動をするアメリカの退役軍人の会をはじめ、様々な人々がカンジョンを訪ね、慰めと勇気を得て帰っていくその出会いの中にこそ希望を見る、という司教の話だった

これこそが私たちの抱くべき平和のビジョンなのではないか。現場と現場、最前線で闘っている人々が共につながっていくこと。そこに希望がある。出会いが出会いへとつながり、平和の鎖が悪の力を包囲して行く。

平和のネットワークをつくっていくこと。韓国の社会使徒職が力を入れ、人材を投入しているのは、移住労働者のための施設、そして脱原発の運動、軍事基地反対と、日本管区社会使徒職が力を入れるものと重なっている。このような協働の実践はすぐに実を結ぶものではないかもしれない。しかし、同じ志を持つものがそれぞれの最前線に立ちながら、交流していき、互いに鼓舞していくこと。そのネットワークを支えていく橋となっていくこと。それこそが、日本が過去の過ちをくりかえさず、新しい歴史をつくっていくということなのではなかろうか。

10月3日は生涯忘れられない日となった。 脱原発巡礼の翌週、水曜デモ(日本大使館前で元従軍「慰安婦」への謝罪を要求する集会)で発言する機会をいただいた。日本人神父としてどうしても伝えなければと思っていた言葉。「ミアンハムニダ。」過去への謝罪の言葉。そして私たちが共に真の親友として新しい未来をつくっていきたいという思いをハルモニの前で伝えた。ハルモニが笑顔で手を握ってくださった。その握りしめた手を通して、天に約束した。

仏教者から見た『ラウダート・シ』:共同活動へ

ワッツ ジョナサン
国際仏教交流センター研究員(孝道教団・横浜)

教皇フランシスコが2015年5月24日に発表した回勅『ラウダート・シ――ともに暮らす家を大切に』は、広範な問題を扱った根本的かつ革新的な文書であると、多くの人から称賛されています。実際、この回勅は環境問題を単純に描写し、個々人のエコロジー意識を啓発するのみに留まりません。教皇はむしろ大胆に、深い洞察力をもって、環境の危機的状況と、深く関係し合う世界の経済・政治・文化的課題とを結びつけました。近年、仏教者たちも、現場での環境活動と、仏教的観点から環境について書いた数多くの書籍という両面から、グローバルな環境危機の諸問題に取り組んできました。『ラウダート・シ』という画期的な文書が出版されたことを受けて、仏教者もまた、気候変動と環境に関する共同声明を作成しました(https://gbccc.org/buddhist-climate-change-statement-to-world-leaders-2015/)。

『ラウダート・シ』と仏教思想―共通理解と落とし穴―

仏教者から見て、特に社会問題に取り組んでいる仏教者から見て、『ラウダート・シ』には、共通の洞察や同意ができる多くの領域があります。例えば、私たちの解放のための地球や「器」としての自らの身体の価値(98項)、すべてのものの相互依存(86項)、私たち自身と密接にかかわるすべての生き物への深いいつくしみ(89項)、「少欲知足」やシンプルな生活を通した、三毒(貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚癡(ぐち))からの解放(9項)などです。けれども教皇は、それらの問題を単に個々人のレベルに留めません。『ラウダート・シ』のまさに冒頭から、「世界経済の機能不全の構造的な原因の排除と、環境保護を担保できないことが実証された成長モデルの訂正」について深く話しています(6項)。

仏教の立場から見て、『ラウダート・シ』の最も印象的で優れた特徴は、教皇が社会正義を常に強調しているという点です。仏教では一般的に、個人やコミュニティよりも大きな社会勢力の問題に対する意識が大きく欠けています。カルマ(業)によってその人の人生は運命づけられ、一種の自然的正義が生まれると信じられているからです。その最も極端な形は、苦しみを前世の不思議なカルマの報いであると考え、この苦しみは過去に行った悪業に対する罰として耐えなければならないとする仏教者の理解です。こうした理解は、貧しい人の窮状や裕福な人の幸運、身体障がい者の不運、特に女性の社会的地位の低さを説明するために用いられてきました。幸いなことに、ここ数十年、社会問題に取り組む仏教運動の台頭に伴い、環境危機といった社会正義の問題に対する仏教者の意識がだいぶ高まってきました。

社会正義に関して、仏教者はキリスト者から多くのことを学べますが、キリスト者もまた、環境正義に関する理解を仏教者によってより深めることができる、相互学習があると思います。『ラウダート・シ』の第三章Ⅲで教皇は、「近代の人間中心主義の危機と影響」について詳細に語り、今日私たちが直面している様々な問題の原因となっている西洋キリスト教から生じた近代主義的動きを、見事に、きっぱりと否定します。そして教皇はこの状況を改善するため、次の二つの結論を述べます。(1)人間の創造力によって正しい自制を行うために、私たちは「世界を創造し、その唯一の創造者である御父」を必要としています(75項)。(2)私たちは「認識や意志、自由や責任という、人間に固有の能力の存在と価値が同時に認められるのでなければ、世界についての責任を感じ取るよう人間に期待することは不可能です」(118項)。

しかしながら、仏教のアプローチは違った方法で自制と責任を発展させようとします。仏教では、私たちを支配する神人同形論的権威にではなく、むしろ宇宙全体の創造力と不可分の自然界と私たちの完全な相互依存から生じる、より自然で内的な動きに訴えます。タイの「森の聖」として有名なプタタート比丘(1906~1993)は、次のように洞察しています。「私たちの自然保護活動が有益で、正しく、偽りのないものであるということが大事です。では、どのような力や権力が自然保護のために使われるべきでしょうか。私たちの思い通りを強制する直接的な力も、権力の種類の一つです。しかし、明確に私たちの義務を理解し、意志をもって成し遂げるため、現実に対する正しい理解を作る力というものも存在します・・・。ダンマは心のエコロジーです。・・・自然のエコロジーの中でダンマは、あらゆる物事をとてもよく整えています。しかし、私たち人間はこの素晴らしい事実をまったくもって感謝していません。・・・精神の『自然』がよく保たれているとき、外側の物質的『自然』はおのずと保たれるのです。」

私がここで強調しようとしている重要な点は、自制と他の生活様式への責任についての道徳的な勧告を用いて、環境のために行動するように人々を説得することは、非常に困難であるということです。 結局のところ、相互の愛や思いやりについて、教皇は非常によく似た理解を持っていると思いますが、神人同形論的訴えは、教皇よりも洞察力の低い人々によって誤解される可能性があります。

キリスト教と仏教の共同活動へ

環境危機に関してキリスト教と仏教の理解が互いに補い合える方法を見てきましたが、最後に、共同活動について最も重要な点を明確にしたいと思います。現に教皇は、環境問題に向き合うためには、善意の個々人の活動から、より大きな集団的推進力へと移行することの必要性を明言します。私は、より大きな影響を及ぼす生活様式の変革のために、地方および地域レベルでの宗教共同体の集団的影響力に重点を置く必要があると考えています。なぜならそれらは社会レベルで実践しているからです。世界中の大部分のコミュニティに寺院、教会、モスク、あるいはその他の宗教施設が存在するのであれば、エコロジーの福音に従って活動するそれぞれの力は、教皇や他の宗教指導者たちがはっきりと述べたように、私たちのグローバルな経済・政治秩序の破壊的な力を抑止するだけでなく、変革をもたらすものとなるでしょう。

私が25年以上働いてきた「社会問題に取り組む国際仏教者ネットワーク(INEB)」は、教育・アドボカシー・ネットワークづくり・巡礼・エコ寺院コミュニティの開発(かいほつ)などのために2012年に設立された「諸宗教間気候環境ネットワーク(ICE)」というサブネットワークを通じて、このような動きを発展させようとしています。私が深く関わっているICEのエコ寺院コミュニティのワーキンググループは、1990年代初頭に日本の大河内秀人師(見樹院住職)が始めたビジョンと活動――核のない日本を創り、コミュニティ内で環境意識を育む――から生まれました。エコ寺院コミュニティ設計システムとは、単に寺院の屋根に太陽電池パネルを設置するだけではなく、全体的な開発プロセスを含みます。この新たなネットワークはすでに、中国、韓国、ミャンマー、タイ、スリランカ、インド、日本の寺院とパートナーシップを結んでいて、太陽光発電施設の増設や様々なエコロジー工法の実施を支援しています。

結論として、世界でも有数の宗教指導者の一人である教皇フランシスコが、これらの問題についてとても深く、また雄弁に語ってくれたことを非常に感謝しています。そして、『ラウダート・シ』の中で教皇が示した勇気とビジョンが他の指導者たち、特に仏教界の指導者たちを促し、彼らもまた同様のことを行うように願っています。

日本カトリック司教団「脱原発メッセージVer.2」をめぐって

光延 一郎 SJ
イエズス会社会司牧センター所長

2016年11月11日に、日本カトリック司教団は「地球という共通の家に暮らすすべての人へ―原子力発電の撤廃を―福島原子力発電所事故から5年半後の日本カトリック教会からの提言」とのメッセージを発表しました。これは5年前、2011年11月8日の同司教団メッセージ「いますぐ原発の廃止を~福島第1原発事故という悲劇的な災害を前にして~」を確認し、再出発するためのものです。

メッセージはまず、この5年半の間、私たちが事故から何を学んだかを挙げます。①地球上ではほとんど起こらない核分裂を人工的に起こして取り出す核エネルギーは、桁違いに強大である。②それを安定させる技術(放射性廃棄物処理技術)を人類はいまだ獲得していない。③ひとたび事故が起これば、市民生活が根底から破壊され、環境被害は、国境も世代も超えて広がる。④経済的発展こそが人間を幸福にするという思想が世界に魔力のように拡がっており、それが原子力発電撤廃の前に立ちふさがっている。

原爆被爆国である日本は、1955年から国策として原子力発電を推進してきましたが、その間にも数々の不幸を経験してきました。しかし、この国が歴史から学び、被爆国の責任を誠実に果たしてきたとは、残念ながら言い難いでしょう。福島第一原発事故についても、政府や東電は、被災した住民の方々の経済的・社会的・精神的な苦境、労働者の被曝などの問題に真摯に向き合ってきたでしょうか? むしろ事故の収束と廃炉、放射性廃棄物処理への見通しも立たないまま、原発事故はすでに終わったかのごとく避難指示を解除し、原発の稼働と輸出、核燃料サイクル計画を再び推進しようとしています。

福島の事故以後、原発体制が、安全性、廃棄物処理、人々の健康、平和、コスト、倫理などの面からもはや破綻しているとの認識は多くの人々に共有されているでしょう。しかし事故原因の徹底究明、および政府や東電という加害者の責任追及はあいまいにされ、これについてメディアも教育も萎縮しているようです。

折しも2015年5月、教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ――ともに暮らす家を大切に』が公布されました。この回勅は、原子力発電の撤廃については未だ慎重な姿勢を保ちながらも、エコロジーを将来世代への責任や環境的正義という倫理問題から論じています。特に第三章では、生態系の危機は、近代以来の人間中心主義と技術主義への偏重と、知識と経済力を持つ一部の人たちの強大化する支配力に原因の一端があると指摘します。その例として、バイオテクノロジーが取り上げられますが、その論理は(あえて触れられていない)核エネルギーにもそのまま妥当するでしょう。

司教団メッセージが強く訴えるのは、原発問題についての地球規模の連帯です。事故が起これば放射能汚染はもちろん国境を超えますし、また原子力発電の技術は、ウランの採掘と精製、使用済み燃料の再処理、廃棄物の処分など、すべての段階においてグローバルなシステムの上に成り立ち、国際的な安全保障問題とも切り離せません。これについてメッセージは「わたしたち日本司教団は、…まずは世界中のカトリック教会に向けて協力と連帯を求めます。それによって、宗教も民族も国家も超えた、地球規模の連帯の礎を築きたいのです」と訴えます。とりわけ韓国カトリック教会は、玄界灘を隔てて原発被害において日本と一蓮托生であることもあり、最も重要なパートナーです。

司教団メッセージは、「原子力発電の是非を将来世代をも含めたすべての人間の尊厳を守るという一点から判断しなければならない」とし、「今一度立ち止まり、人類社会の目指すべき発展とは何か、真の豊かさとは何かを問い直さなければなりません」との言葉で締めくくられます。

日本カトリック中央協議会は、このメッセージに先立ち『今こそ原発の廃止を――日本のカトリック教会の問いかけ』を刊行しました。これは、2011年の脱原発のメッセージを裏づけ、根拠づけるために編纂されました。内容は、①核開発から福島事故にいたる歴史に含まれる社会的・人間的問題、②核エネルギーと原子力発電の科学的問題点、③脱原発とキリスト教の思想という三部からなります。主眼は、原発問題を経済や政治からだけでなく、なにより福音的・倫理的な視点という、日本社会に最も欠けている観点から考えるための材料を提供することです。

原発は、やはり国家権力が牛耳る閉鎖的利益共同体の経済論理と安全保障戦略と軍需産業の癒着の産物です。そこでは、政治、経済、科学、技術、企業、軍事を握る少数特権者による国民の意思の無視、情報隠ぺい、買収・分断など、およそ民主主義とは相いれない所業が横行します。

 こうした抑圧的なシステムは、イエス・キリストのいのちといつくしみの福音と相容れるものではありません。原発は「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」(創世記3・5)という原初の罪の反復そのものであり、その意味で信仰の問題でしょう。原罪と同じく、人間の傲慢が神を追い出し、自分がその座に着こうとするならば、人間社会を成り立たせる最後の歯止めも連鎖崩壊するでしょう。核分裂とは、そもそも結合していた原子(「アトモス(分けられないもの)」)を解体することで、すべてを壊滅させるエネルギーへと反転させることだとのことです。福島第一原発事故は、地震国日本を震源地とする、世界文明に亀裂と崩壊をもたらす出来事の始まりだとも言えるでしょう。

 教皇フランシスコは、回勅『ラウダート・シ』で、人間が健やかに発展していくためには「神との和解」「人間相互の和解」「人間と被造界との和解」が必要だと述べました。核エネルギーはしかし、この三重の関係、そして私たちの自分自身との関係というアトモスを断ち切り、分解させます。こうした事態の根源は、同教皇が使徒的勧告『福音の喜び』で語った反福音的グローバル化の渦、すなわち利益追求と力への依存が結ばれた巨大軍産複合体、秘密保護法などによる言葉と思考の自由の制限、テロと治安強化、社会全体の軍事化…につながっていることでしょう。

私たちは、恐怖・威嚇・虚構の力である核エネルギーを克服して、いのちを生かす本来の力、聖霊の力を取り戻すべきでしょう。そのために、原発事故で失われた「人間」が回復されるように、被災者とともに考察を深め、情報を共有し、ネットワークをつなげていくことが必要です。そして大量の電力よりも、人間に内在する資源、人々が力を合わせてよりよい未来をつくっていこうという意志と希望を持続可能なエネルギーとする「人間」の尊厳と権利に見合った社会の仕組みを再建していかねばなりません。理論だけではなく、実際の人々の連携を図る、正義と平和協議会「平和のための脱核部会」のネットワークなどを通して、まわりの人々、また隣国の人々とも連携を深めて、脱核の声をバチカンにまで届かせたいものです。

イエズス会第36回総会に参加して

佐久間 勤 SJ
上智大学神学部教授

2016年10月3日から11月12日までの6週間、ローマにあるイエズス会総本部会議場で、第36回総会が開かれました。日本管区からは梶山管区長と私が参加しました。今回の総会に課された使命は、ニコラス総長の後継選出と、重要課題に関する指針の制定でした。

総会全体を振り返ってみると、イエズス会全体の一致が強く印象に残りました。第32回総会(1974~75年)が打ち出した「信仰への奉仕と正義の促進」という会全体の使命の定義は、今や、会全体の共通認識として定着したことを目の当たりにしました。総会参加者に個人的に、所属管区で社会使徒職に携わる会員が誰かと尋ねると、中南米のイエズス会員は皆が何らかの社会使徒職に関わっていると言われたのが印象に残っています。ベネズエラ管区から新総長が、しかも非常にスムーズに選出されたのは、単に中南米だけでなく、イエズス会全体にもこの意識が浸透しつつあるように思えました。

「わたしたちが(総会でおこなう)識別は、貧しい人々の目で世界を見ること、そして、彼らと共に生きることへと導いてくれるでしょう。」新総長ソーサ神父が言われたこの言葉に、第36回総会全体が凝縮されています。難民、宗教対立、貧困など、分裂や傷を負ったこの世界に和解の福音を宣べるという使命の重さと、自己の限界や無力さを客観的に受け止めて、神からの呼びかけに応えるには、イグナチオの識別が決定的な鍵となります。総会中に訪問された教皇フランシスコも(識別による)神からの慰めに支えられて、十字架のキリストと共に働くことをメッセージとされました。総会はそれに応えて「アイデンティティー・ミッション・共同体」に関するより深い理解をまとめる教令を発しました。

シリアなど武力紛争地に生命を賭して踏みとどまって奉仕している会員を支援する教令、そして、過去も含めて弱い立場の人々を虐待する会員の問題についての総長への勧告も定めました。地域的事情の相違を越えて総会が一致して決定できたことに多くの議員たちが感銘を受けていました。イエズス会が共同体として、人々と協働し、ネットワークを強化して、和解の福音に奉仕する。総会が定めた方針は、イエズス会員だけでなく、共に働くすべての人々が関係する内容です。センターに関わってくださっている皆様とも共に歩めるよう、これからも祈りと支えをよろしくお願い申し上げます。